「計画57年、八ッ場ダム着工へ 水没目前、町のきずな」(毎日新聞)

2009年5月10日 毎日新聞東京朝刊より転載

 利根川水系吾妻川中流に国が計画している八ッ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)本体工事が年度内に始まる。山あいの町に降ってわいた計画から57年。かつて町を二分した反対闘争は終息したが、いまだにダムを歓迎できない人もいる。大戸(だいど)川ダム(大津市)の事業凍結を同じ国が決めるなど、公共事業見直しの流れに反して建設に向けた手続きは粛々と進む。苦渋の選択をした住民らの心中ではなお、疑問の火がくすぶり続ける。【伊澤拓也】

 ダム完成後は水没する川原湯温泉。温泉街を見下ろす小高い丘に、町でただ1軒の老舗牛乳販売店がある。創業85年の「豊田乳業」。水没地区の3分の2に当たる住民が計画の遅れと長引く工事に嫌気がさし、代替地への移転をあきらめ次々と転居する中残った。それどころか、敷地内では現在、新しい乳処理工場建設のつち音が響く。

 敷地の一部は水没するJR吾妻線の付け替え用地だが、社長の豊田武夫さん(57)は「ダムの必要性に納得がいくまでは渡せない」と売却を拒んでいる。完成を急ぐ国との交渉は平行線のままだ。
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 <遠く祖父より受け継(つぎ)し/故郷の田畑吾(わ)が住居/湖底に沈めてなるものか/ダム反対に決起せよ>

 計画が浮上した直後、こんな歌が川原湯温泉で流行した。作者は豊田さんの父文次郎さん(88)のおじに当たる故嘉雄さん。「よっちゃん」の愛称で親しまれ、旅館を営みながら反対闘争の先頭に立った。若いころは近所の子供らを引き連れ、歌声を響かせていた。年配者の中には、歌を覚えている人がいる。

 「なんでわれわれの町が国のために水の底に沈まなくてはならないのか」。嘉雄さんは反対闘争の歴史をつづった著書「湖底の蒼穹(そら)」に、そう記して怒りを表現した。住民らもこれに同調した。闘争が最も激しかった60年代。建設省(当時)職員が現地を訪れると、軒先につるした一斗缶をたたいて「帰れ」と連呼した。「よっちゃんと一緒に役人を追い返した」と豊田さん。住民らは集会で、ひざを突き合わせ深夜まで対策を練った。

 ところが一枚岩だった住民も、ほころび始める。国が「高く買う」と個別交渉を重ねた結果、住民代表でつくる交渉委員会は「賛成派」が主流となり、町は真っ二つに割れた。表札に「ダム反対」と書く「色分け」も起きた。用地買収に応じた人たちは町を離れ、活気もなくなった。ダム問題は住民のきずなを粉々に壊していった。
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 01年、住民代表が用地買収の補償基準に調印した。「ダムを受け入れ、再生するしかない」という空気が支配的で、反対闘争の事実上の終結だった。あれから8年。狭い温泉街の道路をトラックと重機がせわしく往来する。住民の多くはダムの早期完成を望んでいるとされる。ただ、胸中は複雑な人もいる。川原湯温泉組合長で旅館を営む豊田明美さん(44)は「人口減、施設老朽化などの理由が積み重なった。苦渋の決断だった」と賛成に転じた事情を話した。いずれは代替地に移るつもりだ。

 詩が得意だった嘉雄さんは2年前の初夏、老衰で静かにこの世を去った。90歳。「ふるさとが/湖底に沈む少し前/花の咲く頃(ころ)/ぽっくり死にたい」。生前詠んだ詩の通りの生き方だった。その遺志は若い世代に受け継がれている。

 豊田武夫さんの長男真一さん(30)は「うちはここに根を張った牛乳屋。地元を無視できるわけがない」と話す。思いは父たちと同じだ。ダム反対期成同盟委員長を務めた文次郎さんを含めて嘉雄さんから4世代にわたり、ダムに翻弄(ほんろう)される古里を見つめる豊田家。豊田さんは「古里を壊してまでダムが必要だとは思えない」と言い切った。
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 東京地裁で11日、判決が言い渡される。東京都の市民グループ「八ッ場ダムをストップさせる東京の会」の会員らが、都がダム建設費を出すのは違法として、支出差し止めと過去1年間の支出額約32億9000万円の返還を求めた訴訟だ。同様の訴訟は千葉県などダム下流の5県でも提訴されており、初判断となる。

 高度経済成長期前に生まれたダム建設計画は、世紀をまたぎ「脱ダム」機運のうねりをすり抜け、生き続ける。水没予定地ではまだ約340世帯が暮らす。豊田さんは思う。「住民同士が最後に心の底から笑い合った日はいつだったろうか」