八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

飽和雨量を過少設定 ダムを造るための数字操作か(東京新聞)

 八ッ場ダム建設の目的は、「治水」と「利水」です。「利水」、つまり都市用水の開発については、首都圏下流でも水あまり現象が年々顕著になってきており、「利水」目的に科学的根拠がないことが指摘されてきました。一方、「治水」については、わかりにくい専門用語や数字のせいで、河川工学などの専門家に任せるという風潮が続いてきました。
 けれども、流域住民と国が治水問題で鋭く対立してきた九州の球磨川、四国の吉野川では、国が示してきた数字が科学性に欠けるものであることが次々と明るみに出てきました。利根川においても、八ッ場ダム問題が浮上し、多くの人々が国が示す治水計画を検証する中で、各方面からダム建設の根拠とされてきた数字に疑問が投げかけられるようになってきました。
 このほど東京新聞が特集記事で明らかにしのは、「飽和雨量」の問題です。ダム推進側の学者、議員らは、「緑のダム」という概念そのものをことあるごとに批判していますが、ダム建設を是認するために森林の保水力を過小評価してきたのであれば、ダム推進の理由そのものが問われることになります。

2010年1月16日 東京新聞「こちら特報部」より転載
ー飽和雨量を過少設定 ダムを造るため数字操作か 
  森林なのに水田以下扱い 通常130㍉をすべて48㍉に 係数変えれば治水上不要ー

 緑豊かな利根川の上流域で、降り始めから森林土壌が飽和状態となる雨量が「四八㍉」は少なすぎるー。八ッ場ダム(群馬県長野原町)建設の根拠となる治水基準点・八斗島(やったじま・同県伊勢崎市)での最大流量問題で、専門家は疑問を投げかけた。この飽和雨量の低さと最大流量をめぐtっては、長野県で建設の是非が争われている浅川ダムでも問題になっている。(篠ケ瀬祐司、石岡千景)

 八ッ場
 「飽和雨量が五十四の全流域で同一というのは常識はずれだが、四八㍉という値は、さらに常識外であり得ない数値だ」
 拓殖大助教の関良基氏(森林政策)は、国土交通省の資料を見て、飽和雨量が極端に低いことを指摘する。
 飽和雨量は、土壌がどのくらいの雨水を貯めるかを示す係数で、「貯留関数法」で最大流量を計算する際に利用される。飽和雨量が低ければ、より多くの水が河道に流れ込むことになる。
 関氏によると、普通の森林土壌は一三〇㍉程度の雨水を貯めることができる。「八斗島上流域は緑豊かな地域。森林をすべて伐採しない限り、飽和雨量が四八㍉ということはあり得ない」
 飽和雨量は地域の地形や地質に左右されるが、土地利用ごとでみれば市街地が二〇~四〇㍉、水田は五〇~六〇㍉、森林は一〇〇~一五〇㍉程度と考えるのが一般的だという(グラフ参照)。
 八斗島上流域約五千平方㌔の多くは森林が占めることから、上流域の飽和雨量は一〇〇~一五〇㍉程度だとみる。
 そうした数字を利用して、最大流量を再計算するとどうなるだろうか。関氏は「最低限の一〇〇㍉を採用すれば、最大流量は毎秒一万二千~一万四千立方㍍程度になるだろう」と推測する。これは国が主張してきた最大流量の四割減だ。
 国は一九八〇年に策定した「利根川工事実施基本計画」で、四七年九月のカスリーン台風並みの雨(三日間で三一九㍉)があった場合、八斗島に最大毎秒二万二千立方㍍の水が流れると試算。
 これを前提に、二〇〇五年の「利根川水系河川整備基本方針」で、洪水被害を防ぐためには八斗島で毎秒一万六千五百立方㍍の水を流し、上流ダム群などで毎秒五千五百立方㍍を調整すると説明してきた。
 最大流量が毎秒一万二千~一万四千立方㍍ならば、治水上、八ッ場ダムは不要だ。
 一九五〇年以後、八斗島には毎秒一万立方㍍以上の水が流れていない。
 この理由を、関氏は「緑のダム」の効果が大きかったと分析する。
 「終戦直後に森林が荒れていた当時に襲ったカスリーン台風では、八斗島に毎秒一万六千立方㍍の水が流れたが、その後は木々が育ち、森林の「質」が向上した。これを考えても、八斗島に毎秒二万立方㍍以上の水が流れるという国側の主張が、いかにとんでもない数字かがわかる」
 国会図書館調査局の資料でも、群馬県内の五一年と九八年の森林面積は約四十一万六千㌶でほぼ同じだが、木が太くなるにつれて増える「森林蓄積量」は五倍以上に増えていることが分かっている。

 (中略)
 前出の関氏は「行政側が八ッ場ダムや、浅川ダムを造りたかったから、多くの水が流れるという計算結果を出すために、森林の保水機能を無視して飽和雨量を低く設定したのではないかと疑われる」と言う。
 ダム建設のために、行政側が数字を操作したとしたら問題だが、関氏はこう話した。「流域住民は、『難解な専門用語と複雑な計算を羅列すれば、住民は分からないだろう』という、行政側の横暴を黙って見過ごすほど愚かではない」