八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

湯かけ祭りの記事

 川原湯温泉では、今年も大寒1月20日の早朝、湯かけ祭りが行われました。
 毎年、メディアが取り上げる季節感あふれる行事ですが、テレビも新聞も、切り口は八ッ場ダム問題との繋がりを意識したものにならざるをえません。

 今年の各メディアの記事とともに、地元がダムを受け入れた25年前の記事(末尾)を読むと、カメラマンの多さなどは今と変わらず、当時、すでに地元では温泉街の将来についてかなり厳しい見方をしていたことがわかります。現在を見通した発言をしていた当時の住民はすでに亡くなられ、八ッ場ダムがどれほど多くの犠牲を地元にもたらしてきたかを改めて考えさせられます。
 今年の湯かけ祭りでは、例年以上に行政職員と業者の姿が目立ち、マスコミは昨年ほどではありませんでしたが、やはり大勢押しかけていました。
 観光客として選手を初めて体験したある女性は、「想像したよりもっと楽しかったけれど、本当は選手はすべて地元の住民で、よそ者は観客としてお祭りに参加させてもらうのが本当の湯かけ祭りなんだと、参加してあらためて思った」と感想を述べていました。けれども、かつて200世帯あった川原湯地区は、今では50世帯足らずとなり、高齢者の方々も少なくありませんから、60人の選手枠は行政職員、業者、マスコミ、観光客で埋められている状態です。
 住民の方々が選手として、裏方としてお祭りを盛り上げている生き生きとした姿を見るにつけ、肝心の観光客の少なさが残念でした。川原湯温泉の取材を続けている記者の記事には、温泉街へのエールとともに、現地事務所に任せきりで地元の問題に触れようとしない現政権への批判がにじみ出ています。

◆2011年1月20日 朝日新聞社会面より転載
http://www.asahi.com/national/update/0120/TKY201101200206.html

 -お祝いだー 八ツ場ダム地元、川原湯温泉で湯かけ祭り―

【動画】お湯かけて「お祝いだー」 群馬・川原湯温泉

「お祝いだ」と叫びながらお湯をかけ合う参加者たち=20日午前5時43分、群馬県長野原町、葛谷晋吾撮影
 今秋、建設の是非について検証結果が示される八ツ場ダムの地元、群馬県長野原町の川原湯温泉で20日、「湯かけ祭り」があった。温泉の恵みに感謝するという奇祭で400年の伝統がある。

 この日は一年で最も寒い時期とされる大寒。午前5時半ごろ、ふんどし姿の男性や、さらしを巻いた女性3人ら60人が参加した。紅白2組に分かれ、「お祝いだー」のかけ声とともに湯をかけ合った。零下6度の冷え込みの中、辺りは熱気と湯気に包まれた。

 川原湯温泉の旅館はこの1年で2軒が休業し、現在営業しているのは5軒。樋田省三・川原湯温泉観光協会長は「ダムの建設で代替地に移っても祭りは続けたい」。
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 気象庁によると、冬型の気圧配置の影響で、20日朝は全国的に平年並みの冷え込みになった。向こう1週間も、同程度の冷え込みが続くと予想される。

◆2011年1月22日 朝日新聞群馬版より転載
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581101220001

 -住民の絆 湯が温める―

 長野原町・川原湯温泉で20日にあった湯かけ祭り。1年前の祭りの直後、地元で開かれた前原誠司国土交通相(当時)との意見交換会で、地元住民は「褌(ふんどし)を用意して待ってます」と祭りに誘った。参加は実現せず、温泉街を取り巻く状況は依然厳しいが、住民のこれからも祭りを続けるという思いは熱い。(石川瀬里、菅野雄介)

 国交相を招く言葉を投げかけたのは、川原湯温泉観光協会長で祭りの実行委員長も務める樋田省三さん(46)。「あれはシャレだから。殺伐とした雰囲気を和らげたかった。実際に大臣が来たら大変だよ」。20日の祭りの後、笑顔で語った。

 温泉街で代々続く「やまきぼし旅館」の主人。温泉街の若手の代表格としてマスコミの取材に応じてきた。八ツ場を忘れられた存在にしたくないとの思いからだった。

 政権交代でダム中止が打ち出されると、一転して批判の矢面に立たされた。

 民主党が大勝した衆院選の熱気が続いた09年9月、ダム推進吾妻住民協議会が発足。その発足式で樋田さんは涙を浮かべ、祖父や父の代からの苦悩を語り、建設継続を訴えた。その姿がテレビの全国ニュースで流れると、旅館や自宅に「ごね得」などと抗議の電話が鳴り続けた。

 樋田さんは電話線をしばらく抜き、マスコミの取材にも応じなくなった。家族を守るためだった。

 「我々がダムを造ってくれと言ったことはない。ダムを造らないと生活再建ができない法律になっている以上、ダム中止はありえないと言っているだけなのに」。そんな思いは伝わらない。

 白か黒か、敵か味方か、という単純な図式に当てはめて報じられ、八ツ場ダムに注目が集まると、なじみのない政治家が与野党問わず押し寄せた。思いとは違う形で「当事者」になり、戸惑った。

 1年前の意見交換会では思いの丈を大臣にぶつけた。「平行線で大臣を敵視するんじゃなく、交わった話をしたかった」。その際、副大臣としてやり取りを聞いていた馬淵澄夫前国交相が昨年12月、祭りへの参加を打診してきた時は「これは盛り上がるぞ」と、ちょっとうれしかった。

 だが結局、馬淵氏も今月14日に退任し、参加は実現しなかった。

 この1年で2軒が休業。旅館は5軒になった。更地も増え続けている。「住民が少なくなっても祭りをできたことがうれしい。前原さんと馬淵さんには、祭りがちゃんとできたって手紙で報告したい」

 代替地の造成が終わり、共同浴場や旅館が移転すれば、現在地での祭りも来年が最後かもしれない。不満や不安はあるが、樋田さんは前向きだ。信じられるのは苦楽をともにしてきた住民同士の絆。今年も将来を担う子どもたちが大勢参加した。

 代替地へ移ったあとの祭りをどう盛り上げるか。祭りを語る樋田さんの表情は明るかった。

◆2011年1月21日 読売新聞群馬版より転載
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20110121-OYT8T00113.htm

 -川原湯温泉 湯かけ祭りで熱気 先行き不安 吹き飛ばせ-

祭りが最高潮に達し、くす玉から飛び出した鶏を捕らえて喜ぶ参加者(20日午前6時21分)  「大寒」の20日早朝、八ッ場ダムができれば水没する長野原町の川原湯温泉で行われた奇祭「湯かけ祭り」。政権交代直後に民主党が建設の中止を表明してから2回目だが、中止か継続か、依然として先行きは不透明。それでも、ふんどし姿の約60人の地元住民らはこの日ばかりはそんな不安は忘れ、一心不乱にお湯をかけ合った。(佐賀秀玄、石川貴章、波多江一郎)

 まだ辺りは真っ暗な午前4時。温度計は氷点下6度を指し、周辺には雪が積もる。手足の感覚がなくなるほどの冷え込みの中、共同浴場「王湯」に参加者が続々と集まった。この1年間に宿泊できる旅館は2軒減って5軒になり、普段は寂しい温泉街に活気が戻った。

 川原湯地区出身で埼玉県上尾市の大学2年小林穰さん(19)は「祭りはこの町の象徴。授業を休んで帰ってきた」と興奮気味。同町大津の会社員野口秀人さん(28)は「これをやらないと新年は始まらない。八ッ場ダム建設に対するイライラを吹き飛ばしたい」。

 午前5時45分。紅白に分かれ、王湯前の路上で向かい合い、おけに入ったお湯を空高く放り投げて“戦闘開始”。「お祝いだあ」と大声を出して士気を奮い立たせ、階段下にある源泉と道路を何度も往復する。

 至近距離からお湯を浴びると、小石をたくさんぶつけられたような痛みを感じ、顔を背けずにはいられない。お湯は見物客や報道陣にも容赦なく降りかかる。

 約40分のかけ合いの後、紅白のくす玉が割られ、中に入っていた4羽の鶏を競って捕まえた。

 ダムの必要性を巡る検証結果は今秋にも出る予定だが、建設継続でも2015年度だった完成予定はさらに3年遅れると発表されたばかり。川原湯地区は住民の転出が相次ぎ、祭りも人手不足で大変という。

 それでも、400年以上続くという祭りの熱気は変わらない。実行委員長の樋田省三さん(46)は「少人数でも運営できたのはうれしい」と素直に喜んでいた。

◆1986年2月 上毛新聞より転載

 ー八ッ場ダム現地ルポ 生活再建はー5 誘客ー

 大寒の一月二十日未明、川原湯温泉の源泉・王湯前で、ふんどし姿の若者たちが湯をかけ合う。奇祭、湯かけ祭り。四百年も続く川原湯の看板行事だが、ことしの人手はもう一つだった。「たまたま宿泊客の少ない月曜で、日曜と重なった昨年と比べてきびしかっただけ」と、長野原町企画観光課。逆に目立ったのが県内、外からのカメラマンで、会場より一段高い小丘に数十人がズラリ。祭りの後半には、残るのはこのカメラマンと裸の若者ぐらいで「お祭りというより、まるで撮影会」とがっかりする湯治のお年寄りも。

 「昔の祭りは、湯に対する感謝の意味あいが強く、厳寒に裸になるのも、みそぎの要素があった。今は観光が主体」と川原湯温泉観光協会長の樋田勝彦さん(四七)。二十代のころまでは自らも湯をかけ合った。「寒いのなんの、ふんどしが凍っちまうんだから、今ではもうやらないが、ご利益があるといわれているから、見物のお客にもかまわず湯をかける。祭りの日は一日中騒いだものだった」

 旅行ブームの三十年代になってカメラマンの数が増え、新聞や雑誌に祭りが紹介された。これが大きな宣伝になり、野趣に富んだそれまでの祭りの性格は、しだいに観光用へと変わった。

 町が毎年観光PR用につくるポスターは、吾妻渓谷かこの祭りの写真くらい。ダム問題で揺れた戦後、川原湯を強くアピールする観光の”目玉”として育ったものは、祭りしかなかった、ということになる。

 ダム建設によって、祭りは「移転地で続けられる」(樋田さん)とはいうものの、渓谷は大きく変容しそうで、岩脈など数少ない川原湯の持ち味の大半がなくなってしまうことは確かだ。

 県の生活再建案では、観光対策として温泉街周辺に観光会館、多目的広場、森林公園、こどもの国などを整備する、としているが、規模からいって、どれも誘客の目玉にはなり得ない、とみる旅館主は多い。

 「祭りとか、展望の感じられない施設だけで温泉街は活性化しない。将来の変化する事態に対応できる余裕あるプランづくりをしなければ」と、ダム酸性を主張してきた養寿館主、萩原好夫さん(六九)はこれまでの温泉系系の発想の転換を力説する。「旧湯治場の域を自分たちで脱しなければ、再建はありえない」という基本的な姿勢で、これまで私財を投じて学者、建築家らと街づくりの研究に取り組んだ。

 水没関係者の考えはそれぞれ微妙に食い違う。萩原さんの構想と真っ向から対立する旅館主もいる。だが、ある面では、ほとんどの旅館主が萩原さんと同じ思いを抱き始めている。「国や県の構想だけに頼っていては、誘客はできそうもない」とー。