渋川で「八ッ場の縄文時代」展

 八ッ場ダム事業では水没予定地や道路などの事業用地で発掘調査が行われてきました。
 発掘調査を国交省から請け負っている群馬県埋蔵文化財調査事業団が渋川市北橘で展示会「八ッ場の縄文時代」展を開催し、発掘調査の膨大な成果の一部を公開しています。

 今朝の上毛新聞文化面に展示会を紹介する記事が掲載されました。
 タイトルに「1000年の集落」とありますが、展示会で取り上げられている水没五地区の五つの遺跡は、約9000年と言われる縄文時代を通して人々が暮らしていたところで、その後も平安時代、江戸時代などの遺構、遺物が大量に出土しています。

◆群馬県埋蔵文化財調査事業団ホームページ
 http://www.gunmaibun.org/

 発掘調査の最新情報(6/6掲載の西宮遺跡、石川原遺跡、下湯原遺跡、4/26掲載の下田遺跡はいずれも八ッ場ダム事業による発掘調査の報告)
 http://www.gunmaibun.org/iseki/hakkutu/

〈参考〉
 ●展示会『八ッ場の縄文時代』(群馬県埋文調査事業団)ー5/26~10/20、渋川市
 ●水没する歴史遺産

◆2019年6月11日 上毛新聞 (右下の写真は、石川原遺跡の出土品として展示されている石版)
ー渋川市で「八ッ場の縄文時代」展ー

 八ッ場ダム(長野原町)建設に伴い、発掘調査してきた県埋蔵文化財調査事業団の最新情報展「八ッ場の縄文時代」が10月20日まで、渋川市の県埋蔵文化財調査センターで開かれている。町内各地区を代表する遺跡から出土した土器や祭祀用具など80点を展示し、縄文時代の暮らしが分かる展示となっている。

 紹介しているのは長野原一本松遺跡、横壁中村遺跡、林中原Ⅱ遺跡、石川原遺跡、東宮遺跡の5遺跡。遺構の年代は縄文時代中期から晩期が中心で、存続時期が重なるため交流もあったと推定される。

 長野県や新潟県からの出土品と同じ特徴を持つ土器や、東北地方に出土例が多く、儀式などに使われたとみられる「岩版」も見つかり、広範囲にわたる交流がうかがえる。

 石川原遺跡は竪穴建物以外に掘立柱建物や配石墓、水場、クルミやトチの殻が詰まった土坑などが一体的に発見され、八ッ場地域の拠点的な集落と判明した。岩版に加え、ハート形土偶や石棒、ヒスイ製の勾玉など祭祀用具や装飾品も多数出土した。

 長野原一本松遺跡、横壁中村遺跡、林中原Ⅱ遺跡では100~250棟の竪穴建物が見つかった。環状に集落を形成した痕跡があり、千年以上にわたり人々が暮らしていたらしい。

 同事業団八ッ場ダム調査事務所の藤巻幸男所長は「ダム周辺は非常に遺跡の密度が高い。それだけ自然が豊かだったことを示している」と説明する。

 10月以降は江戸期を中心に八ッ場を紹介する予定。土曜休み。午前9時~午後5時。問い合わせは同事業団普及課(☎0279-52-2513)へ。

—転載終わり—

写真下=林中原Ⅱ遺跡の発掘調査。2009年6月1日撮影。ダム事業による付替え国道の用地として発掘調査の対象となった。林中原Ⅱ遺跡では、縄文時代中~後期の焼骨が多数出土したことが後になって報道された。➡「八ッ場ダム事業による発掘調査で縄文人の人骨出土」

写真下=吾妻川の右岸にある横壁地区は、丸岩や堂岩山が聳える北向き斜面の土地。横壁中村遺跡の発掘調査が行われたのち、水没住民の移転代替地が造成され、国道の付替え工事も行われた。2005年12月1日撮影。

写真=石川原遺跡は川原湯地区の水没予定地、上湯原にある。吾妻川の右岸にせり出す上湯原は、かつては30軒を超える人々が暮らす農村地帯だった。
 天明三(1783)年の浅間山大噴火の際には、吾妻川を流れ下る泥流が舌状台地を覆ったため、全域が天明浅間災害遺跡であり、厚く堆積した泥流の下に縄文時代から江戸時代にかけての遺跡が重層して出土。写真奥に、八ッ場ダムのダム堤と湖面橋・八ッ場大橋が見える。
 現在も発掘調査が続いているが、発掘調査の終わった土地は、資材置き場や残土置き場、石置き場などに利用されている。2019年6月6日、不動大橋より撮影。
 2019年6月6日撮影。「令和元年5月調査」(県埋文調査事業団HP)