只見川のダム、陰に囚人の苦役(毎日新聞)

 福島県の只見川は巨大な水力発電用ダムの段々畑になっていて、2011年7月の新潟・福島豪雨では只見川の氾濫を引き起こしました。この只見川のダム群は囚人の苦役でつくられたことを伝える毎日新聞の記事を紹介します。

◆2019年11月13日 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20191113/ddm/013/040/018000c
ー山は博物館 水をめぐって/2 只見川のダム、陰に囚人の苦役ー

 奥会津の雪解け水を集める福島県の只見川では太平洋戦争後、復興と経済成長のためにと東北電力などが次々と水力発電用ダムを造った。工事に駆り出されたのは囚人。宮城刑務所は現場に寝泊まりさせ、7年間で全国最大規模の延べ67万6000人を動員した。

 只見川は尾瀬ケ原を水源とし、燧ケ岳(ひうちがたけ)や会津駒ケ岳の雨を集めながら奥会津を貫流する。岩手県の山王海(さんのうかい)や田瀬の各ダムで実績を上げた宮城刑務所が、最初に只見川に出役したのは1951年12月、会津坂下(ばんげ)町にある片門(かたかど)ダムだった。宿舎は「荒涼たる冬の山峡(やまかい)に急造の生木で作ったバラック建。寝具を乾燥する術(すべ)もない」と記録されている。その後、上流に向かって田子倉まで計6ダムと宮川の1ダムに作業場を拡大。58年11月まで最盛期は1日約1000人が働いた。

 当時の雑誌「刑政」によると、作業場は「ドリルの音、ハッパの音、鉄板のきしむ音、モーター音が入り乱れる」と紹介。1~2月は「吹雪の中で凍傷や怪我(けが)と戦いながら過ごした」。性犯罪者は除き、改善が比較的困難な「B級」の者が集められたが働きぶりは良かったという。休みは多くて月2、3日。ありがたいのは「労働争議が絶対にない」こと。月1回の映画観賞など余暇もあり、「今は苦しませるのではなく、労働意欲をもった人間を作る。そうすれば世の中に出ても犯罪が少なくなる」と説明している。

 近隣住民は犯罪増加を心配したが、大きな問題は起きなかったという。「最初は警察署長さんが心配して現場に来ていたが、3カ月後には解(わか)ってくれたようです」「受刑者はフグみたいなもの。危ないと思っても食べてみるとおいしい」との発言もある。宮城刑務所の歴史に詳しい元刑務官、柴修也さん(72)は「賃金が安いので建設会社も助かった。山に囲まれた所なので逃走者も少なかった」と指摘する。

 近代的な刑の執行制度になった明治以降、囚人は道路開削や河川改修、農場や鉱山の作業に就役した。昭和10年代の戦時下は、飛行場建設や造船、航空機製造など、戦争のための労働力とされた。

 終戦後、刑務所は戦火で荒廃したうえ、戦争犯罪人収容のため東京拘置所などを米軍が接収。収容可能人数が減ったが、社会の混乱で犯罪が増加し、刑務所は過密状態となった。この対策が只見川で行ったような「構外作業」だった。47年5月時点で、全国の従事者8789人のうち、農耕に23%、ダム工事など土木に20%、造船に11%が就いたほか、森林伐採や製炭、製塩もあった。赤城山や大山、阿蘇では食料不足解消のため原野を開墾。徳島刑務所は剣山(つるぎさん)に近い長安口(ながやすぐち)ダム(徳島県)、山形刑務所は朝日連峰に抱かれた木川ダム(山形県)に出役させた。

 一方、奥会津では囚人7人が発破の爆風を受けたり、はしごから転落したりして死亡した。岩石に体を挟まれて腰骨が折れるなどして障害を負った人もいた。刑務官も雪崩などで3人が死亡した。苦役が目的でないとはいえ、「只見川電源開発作業隊殉職・殉難者慰霊碑除幕式・慰霊祭記録」(79年発行)は「冬季一丈(約3メートル)余の積雪と氷点下二十度を超える厳寒、夏季は焼くがごとき猛暑。苦労は筆舌に尽くせぬと思量される」と指摘している。【去石信一】=次回は12月11日掲載

「タダノミ川」建設めぐり政争
 只見川をめぐり、地元では終戦直後から激しい水争いが起こった。福島県は、只見川にいくつものダムを建設する「本流案」を主張し、新潟県は途中のダムからトンネルで信濃川支流に流す「分流案」を展開。政争に発展し、多額の接待費や活動費が飛び、「タダノミ川」と批判された。政府は1953年、基本的に本流案を支持し、争いに決着がついた。

 一方、ダム建設による住民への補償金を狙い、金融機関は預金獲得競争に奔走。地銀の社史によると、14社が職員を派遣。「四十数名もの虎視眈々(こしたんたん)たるベテランの中に、当行も常時7、8人のつわものを夜となく昼となく繰り出し、火花を散らした」