八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

利根川見学・群馬県玉村町の川辺を巡る

 群馬県前橋市と伊勢崎市に挟まれた玉村町在住の和田晴美さんのレポートを紹介します。
 八ッ場ダムの主目的は洪水調節です。利根川の支流・吾妻川に建設された八ッ場ダムは、洪水の際、利根川の水位を低減することが期待されています。
 利根川は上越県境に発し、渋川市で吾妻川が合流した後、前橋市を下り、玉村町で烏川が合流します。
 昨年の台風19号の際、玉村町を流れる利根川の水位はどこまで上昇したのでしょうか?

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 利根川見学・玉村町の川辺を巡る

 八ッ場ダムの運用が始まりました。昨年秋の台風19号の大雨では、八ッ場ダムのおかげで洪水を防げたとの声を、群馬県玉村町でも何度も住民から聞きました。ですが、まだ増水の跡の残る堤防に行って見れば、水が堤防を越える可能性があったかを目で確かめることができます。

 見学コースは玉村町の福島橋からスタートし、下流方向へ坂東大橋まで。(右図は住民が玉村町の自然についてまとめた“野道”より。図の中央の線は本のページの境目なので、無視して見てください。)

 なお右図では、坂東大橋(利根川の治水基準点がある群馬県伊勢崎市八斗島町と埼玉県本庄市を結ぶ橋)はさらに下流なので、載っていません。
 川の水位は流量観測所で記録されています。近隣の観測所をあげると、上流から前橋観測所(県庁近く)→上福島観測所(玉村町)→八斗島観測所(伊勢崎市)となります。

① 上福島水位観測点 
 台風19号(2019年10月12日)水位上昇跡の確認
 サイクリングロード脇の竹林・雑木や草の枯れ具合、サイクリングロードの破損より 到達水位が推測できます。地元の方の話も参考にしました。

 竹藪わきのサイクリングロードは、橋の下を通るため堤防より低い位置につくられているところもあり、そうしたところではわずかに水没しました。堤防の天端(頂部)は、今回の増水時の水位より2メートルほど上です。上福島地点では堤防に余裕があり、八ッ場ダムがなくとも洪水が溢れることはなかったと考えられます。
(参考ページ➡「台風19号豪雨における利根川の前橋、玉村地点の水位」
 

② 玉村大橋(218メートル)
 2月25日付けの上毛新聞の記事によれば、群馬県は堤防の高さが不足している利根川の玉村大橋から伊勢玉大橋までの左岸2キロ区間で、大型土のうを設置する応急対策を実施することになりました。堤防強化などを盛り込んだ河川改修事業の完成も、当初予定より前倒しすることを目指すとのことです。橋の上から工事の様子が見られます。

③ 伊勢玉大橋(橋長286.3メートル)   
 福島橋から玉村大橋、伊勢玉大橋まで、利根川の岸には小さな崖が見られます。伊勢玉大橋の付近で利根川沿いの崖が終わります。
 右の画像は伊勢玉大橋から上流側を撮った写真です。左手の川岸に小さな崖があります。川の中には点々と岩が頭をのぞかせ(流れの中の黒い点)、川底は礫(小石)ではなく、岩盤のように見える場所もあります。これは24000年ほど前、浅間山が丸ごと崩れ(山体崩壊)、その時に流れ下った泥流(前橋泥流。八ッ場ダムが建設された長野原町では浅間山麓の地名をとって応桑泥流と呼ばれる。)に含まれていた岩です。
 前橋から玉村のこのあたりまで、利根川は泥流が堆積してできた前橋台地を長い歳月の間に掘りこんで流れています。

 河床には洪水で上流から運ばれてきた礫が堆積しています。伊勢玉大橋の下流側の右岸では、礫の浚渫が始まっていました。黒い大きなフレコンバックが岸を囲んで積み上げられ、トラックの走る通路がつくられています。

④ 五料橋(橋長544メートル)  
 五料橋付近から下流では、河道の勾配がゆるくなり、川の流れ、景観にも大きな変化がみられます。
写真右=五料橋から上流方向を見る。背後の山は赤城山。大きな中洲が見える

 福島橋は橋長220メートル、玉村大橋は218メートル、伊勢玉大橋は286.3メートルと、いずれも200メートル台ですが、五料橋の橋長は544メートル、坂東大橋の橋長は936メートルと、川幅がぐっと広がっていくことがわかります。
 五料橋の付近では、利根川には礫のたまった大きな中洲ができていて、川岸や中洲にはヤナギなど大きな木も茂っています。

 五料橋の脇には、「坂東大橋から5.0km」と書かれたポールが立っています。利根川はこの地点から上流側は群馬県、下流側は国土交通省と管理が分かれています。昨秋の台風19号の後、木々の伐採・土砂の運び出しが国交省の事業として大々的におこなわれてきました。
 

 高度成長時代には、コンクリートの骨材として川の砂利は盛んに掘り取られていました。現在は壊した建築物のリサイクルで間に合うとのことで、川砂利をとる業者はいなくなり、川底には砂利がたまり、河床が上昇しています。洪水対策として、こうした掘り取りが必要になっているわけです。川砂利の掘り取りは、ダムよりはるかに安価で、簡単に短期間でできます。
 川には生き物も棲んでいます。生き物との共生も心にとめながら、洪水に備えることの重要性を感じるこの頃です。

 利根川・烏川の合流地点の河川敷に、伊勢玉大橋の下で浚渫した土砂を運び入れていました。トラックが走り回り、砂ぼこりが舞う光景です。

 五料(古い地名は芝根村沼之上)には日光例幣使街道の関所があり、筏を利用した河岸もありました。対岸の柴には本陣がありました。

 天明3年の浅間山噴火では、吾妻川から利根川に流れ込んだ泥流が利根川からあふれて周囲を埋め、関所もうずまり、その後この地域は長く疲弊しました。
 天明3年当時、利根川の川筋は五料付近では7分川と3分川(流量を3割と7割それぞれ流す流路の意味)とに分かれていましたが、それまで本流だった7分川はこの時泥流で埋まってしまい、3分川が幹川になったといいます。泥流の影響で利根川の河床は上がり、その後、水害も多かったようです。島村、八斗島など、川の乱流により島になったのではと思わせる地名も見られます。人と川の付き合いに、長い歴史を感じます。
写真右上=五料の河岸問屋跡の石垣は天明3年に泥流と共に流下した「アサマ石」でつくられている。1885年(明治18)ごろ、日本鉄道の高崎線開通と共に衰えた舟運に従事していた船頭たちの失業対策として、河岸問屋が利根川の川原にあったアサマ石で築造したという。(大熊孝著「利根川治水の変遷と水害」より)

⑤ 烏川を見る・・・利根川・烏川合流地点
 利根川と烏川の合流点を下流側から撮影した写真です(ドローン撮影:巣山太一さん)。右側が利根川、左側が烏川、手前の橋は坂東大橋です。

 広い川原の烏川。
 五料を南に向かって行くと突き当りにある広い川原が、利根川ではなく烏川なので、一瞬、位置関係を理解できない人が多いと思います。
 右の写真は烏川の堤防と川原です。利根川との合流地点のすぐ近くです。舗装部分は堤防の上にあるサイクリングロードです。
 この合流点付近の広い川原は、増水時の水対策にさぞかし役立っていることでしょう。 すぐ上流の川井地区にはかつて河岸があり、さらに上流には物流に重要な役割を果たした倉賀野河岸がありました。天明の噴火で五料や川井には土砂が流れ込み、川の流れも変化し、河岸の役割を果たせなくなってしまったといいます。

⑥ カスリン台風での水害
 利根川の大きな支流である烏川は、五料橋の下流で利根川に合流します。合流点は水害が多発しやすいところです。
 1947年のカスリン台風は、利根川流域に甚大な被害をもたらし、八ッ場ダム計画が立案されるきっかけになったとされます。カスリーン台風の時には、玉村町は利根川の堤防が数か所で決壊し、下図で濃く斜線の入った部分に濁流が流れ込みました。
 

 図の下方(南)には烏川の堤防があります。利根川から溢れた水は、烏川の堤防にせき止められ、烏川沿いでは2メートルを超える浸水が起きました(1.8m~2.5m)。烏川沿いの堤防が決壊して、利根川から溢れた水が烏川に流れ、ようやく水が引くこととなりました。
 当時の浸水の深さを伝えるポールが烏川近くに2か所あり、水害への備えを伝えています。

⑦ 坂東大橋 (橋長936メートル)
 玉村町下流の伊勢崎市と埼玉県本庄市に架かる橋です。広い川原が広がり、関東平野を感じさせます。ここには国土交通省の八斗島水位観測所があり、利根川の治水基準点となっています。
 川原には目盛りの付いたポールが立っています。

 国土交通省の発表によれば、昨年の台風19号豪雨における八斗島地点における最高水位は約4.1メートルでした。試験湛水中であった八ッ場ダムを含む利根川上流7ダムによる水位低減効果は約1メートルとのことですが、八斗島地点の堤防高は7メートル以上あり、最高水位との差は3メートル以上もありました。
(参考ぺージ➡「台風19号、利根川における八ッ場ダムの洪水調節効果」

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 じつはかつて利根川は、玉村町を流れていませんでした。もっと東の方にある、伊勢崎の広瀬川付近を流れていました。中世のころ、前橋台地の昔の小さな川か、人の作った用水路に水が流れ込み、そのまま現在の利根川となったといいます。こんなわけで、玉村町を流れる利根川は地面を掘りこんで流れ、川幅も狭く、岸にはちょっとした崖もあるのです。
 利根川はその後も少しずつ流れを変えながら、洪水で人々を苦しめてもきました。
 川にもそれぞれの歴史があります。川を知るには、こうした川の歴史を知ることも大切かと思います。

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〈参考図書〉大熊孝著「利根川治水の変遷と水害」より
「前橋市の橘山付近から下流烏川合流点までの現在の利根川流路は、16世紀中ごろの天文年間(1532~1554年)の洪水で、高崎、前橋台地の用水路に切れ込んで変流したものと伝えられている。それ以前は橘山付近で左に折れて前橋市の東側いまの広瀬川の川筋を流れ、駒形、伊勢崎、境を経て境町平塚で烏川を合流していた。」