JBpressの連載【川から考える日本】、第二回は長崎県の石木ダム問題です。
ダム問題は、ダム建設の目的である利水や治水の説明に専門用語が出てくることが多いことから、一般にわかりにくく、伝わりにくいと言われます。河川行政、とりわけダムの問題に長年取り組んできたジャーナリストのまさのあつこさんは、この記事で石木ダムで水没することになっている長崎県川棚町、「こうばる」地区の住民の目線からダム問題を捉えています。読者はまるで現場に立っているような気持ちでダム問題を受け止めるでしょう。長い記事ですが、平易な文章で綴られています。是非読んでみてください。
◆2023年3月26日 JBpress
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/74525?page=6
ー予定されていた工業団地はハウステンボスに、目的失ったダム計画が消えない謎
【川から考える日本】石木ダム予定地で「普通の生活」を待つ13世帯ー
「長崎に行っていました」と知人に不在だった理由を話すと、「どんな取材だったんですか」と尋ねられた。「ダム事業のために立ち退きを迫られている13世帯が座り込みを続けている現場です。計画されたときから半世紀以上が過ぎて、目的も失ったのに、長崎県がやめようとしない」と答えると、「そんなことがあるんですか」と驚かれた。あるんです。
工業用地はハウステンボスになり、ダムは目的を失った
半世紀前は佐世保市に工業団地を誘致することが構想されていた。1960年代、大量の水を必要とする重工業が伸びていた昭和の話だ。誘致は失敗。その用地から14キロメートル離れた隣の川棚町に計画された石木ダムは、その目的を失った。そして、ダム完成予定(1979年)は遠く過ぎ去り、その工業用地にハウステンボス(1992年)が開業した。
本来、重厚長大な企業が買うはずだった水は、佐世保市水道局が引き受ける計画になった。しかし、同水道局によれば、過去10年で「給水人口は22万5000人から21万4000人と1万人減った」。
1日最大給水量も1990年代には10万立方メートル(m3)だったが20年間で7万m3に減少。市は2020年代前半にV字回復すると予測。その予測が外れると2030年代にと下方修正した。しかし、実績との乖離は激しくなる一方だ。
「治水」の目的は、国の補助金を引き出すために、どの利水ダムでも掲げられる。石木ダムも例に漏れず、総事業費285億円のうち125.83億円が国からの治水のための補助金だ。長崎県営ダムにもかかわらず、県負担は92.5億円に過ぎない。佐世保市の利水負担分は66.67億円だが、関連事業でそれは膨れ上がる。
事業を撤退せず、住民に立ち退きを迫った長崎県
こんな状況でも長崎県は事業から撤退せず、用地買収に応じない地権者に立ち退きを迫り始めた。2009年、強制収用に向け、土地収用法に基づく手続きを開始。その手続がまだ終わらない2010年、県はダムで水没する県道の代わりの迂回道路の工事に着手しようと試みた。しかし、住民が現場に座り込んで阻止し、工事は中断。
そして、2013年に国が、石木ダム計画は「公共の利益」だと認める「事業認定」を済ませると、県の収用委員会が13世帯の家屋や田畑の補償額を決め、明け渡しを迫った。
それでも、住民は補償金を受け取らず、事業認定の取消訴訟で対抗した。2014年夏に工事再開を目論む県に対する複数箇所の座り込みが必要になると、町内や佐世保市からの支援者が加わった。業を煮やした県は、座り込みに参加していた23人に通行妨害禁止仮処分命令を申し立てた。
翌2015年3月に長崎地方裁判所は16名に通行妨害の禁止仮処分を決定した。筆者が前回この現場を訪れたのは、同年9月3日だ。
強制立ち入り調査を9月2〜7日まで4日間行うと連絡が入ったからだ。9月3日朝、作業服とヘルメットに身を包んだ県職員10人ほどが水没予定地である川原(こうばる)地区に続く一本道を歩いて迫ってきた。「道を開けてください」と言う。
対する地権者と支援者は皆、通行妨害禁止仮処分対策で、帽子とマスクで特定できないようにして横断幕を広げ、「我々は土地も家も売らない」というプラカードを持って、道を塞いで対抗した。マスコミ各社はカメラを構えた。
山々は緑に覆われ、日差しは強かった。
ピザ窯のある「ダム反対テント」で住民は反対を続ける
今回の取材は、それから8年ぶりだ。2月20日、今までで初めて反対地権者からの収用地に工事が踏み込んだと知らされたからだ。
小さな支流・石木川が注ぐ川棚川沿いに車を走らせ、川原地区へ向かうと、見えてきたのは、8年前には建設を阻止できていた付替県道だった。ダム堤体が取り付けられる石木川の左岸側の山は切り崩され、山肌が見える。
右岸側の川のほとりに立つ「ダム小屋」は無事で、道路を挟んだ空き地に新たなテントが立っていた。朝から地権者と支援者が交代で詰めて工事を見張っている。近寄ると、テント脇に見慣れないものがあった。挨拶も早々、「なんですか、これは」と聞いた。
「ピザ窯たい」と見せてくれたのは、岩下和雄さん(75歳)だ。13世帯のリーダー格で、支援者や弁護団のためにピザを振る舞う焼き窯をドラム缶で自作した。テントの下には焼き芋を焼くドラム缶、暖をとるロケットストーブ、燃やす薪が並ぶ。全てが手作りだ。立ち退きを迫られるようになってから17年、抵抗運動の主たちは皆、知らない人が見れば、アウトドアの達人にしか見えない。
3月でも朝晩は冷える。左岸側の山の上にも座り込みテントがもう一つあり、そこのドラム缶ストーブで燃やす薪をトラックで運ぶというので、車で後を追いかけた。細いガタガタの山道を登ると座り込み地点にたどり着いた。
地権者と支援者がドラム缶薪ストーブを囲んでいる。取材者にも「おはようございます」「ありがとうございます」とにこやかに声をかけてくれる。
「人生を返して。私たちはここに住み続けたかけん」
ここでの中心は女性だ。いざという時には、ブルドーザーの下に潜り込んで工事を止めてきた強者達だが、素顔は普通の生活者だ。
町の外から川原に嫁いだ岩永信子さん(67歳)は退職後に座り込みに加わった。シャツの縫製会社に勤めていた頃は、「遅刻早退が得意だった」と笑う。お姑さんの介護に加え、石木ダムを巡って何が起きるたびに駆けつけた。60歳を機に退職。昨年12月に99歳でお姑さんが亡くなった。介護と仕事とダムを両立は大変でしたねと尋ねると、「みなさん、そうです」と信子さん。女性たちは静かに頷いた。
ブルドーザーの下は怖くなかったかと聞くと、「恐かったけど、引っ張り出されんごとせな。しょんなか。警察も30回ぐらい来た。最初は逃げよったばってん、警察は『民事不介入』ち言うて、その間、工事は止まった」と岩永さん。そう分かってからは、揉めると「警察を呼ばんね!」(呼んだらどうか)と県職員に言い返すようになった。県は自分達から警察を呼ぶのはやめたが、座り込みの場所近くに監視カメラを設置し、住民を監視し続けている。
岩下すみ子(74歳)さんは「人生を返して欲しい。普通に生きたい。私たちはここに住み続けたかけん」とシンプルな願いを吐き出した。
かつて、ダム堤体の右岸に位置する「ダム小屋」にお弁当持参で詰めていたのは、信子さんやすみ子さんのお姑さんたちだ。2015年に取材した時は6人のおばあちゃんのうち4人にお目にかかることができた。今は松本マツさん(96歳)のみがご存命だ。すみ子さんは「50年経って私たちは、50年前のお姑さんたちの年齢になったったいね」と50年を振り返った。
ダムに沈む淡水魚やホタル、川原の風景を描く
今、その「ダム小屋」をアトリエにして絵を描いているのは、イラストレーターの石丸ほずみさん(40歳)、ほうちゃんだ。
ほうちゃんに初めて会った時は、彼女は20代後半だった。高校卒業後に双極性感情障害Ⅱ型と診断され、生きづらさを抱えて暮らしていたが、生まれ育った川原に住み続けたい、何ができるかと考え、好きな絵を描いてカレンダーを作成したり絵画展を開いたりして、長崎県内外の人々に川原の良さを知ってもらうようになった。描き続けているのは、石木川にダム計画が進めば消えてしまう淡水魚やホタルの飛び交う川原の風景だ。
2023年のカレンダーは1月がカワムツの群れ、3月がカスミサンショウウオ、5月がホタル籠を持つ松本マツさん、7・8月が石木川に飛び込む子どもたちといった具合だ。2015年にはパタゴニア日本支社の支援でできた石木川の風景を描いたラッピングバスができて、佐世保市内や川棚町のバス路線を今でも走っている。
「いつか自分の絵が文化面で紹介されるのが夢です」と、以前には聞いたことがなかった夢を語って笑顔を見せてくれた。
独特な作風で生き物の臨場感が伝わってくるイラストだが、新聞で紹介されるときは、石木ダム計画に絡めて社会面で紹介される。ほうちゃんが「石木川ミュージアム」と名づけたダム小屋は、ダム堤体予定地の真上にあって、「反対同盟のおじさんたちが、『行政代執行される時には通知ぐらい来るだろう』というノリで茶畑だったところに建てたもの」だ。そんな物語と合わさると「社会面」での紹介になってしまう。
だからいつか、絵そのものが評価され、「文化面で紹介されたい」「東京で展示会を開きたい」とイラストレーターとしての夢を語る。
何かやれば倍返し、ダム不要論が広がらない理由
ダムに時間を奪われながらも、一人ひとりが自分の時間を生きようとする川原住民の声は、少しずつ、受益地である佐世保市の住民にも届くようになった。
地権者たちの運動に共感する「石木川まもり隊」の松本美智恵さん(佐世保市在住)は、どうしてダム不要論が佐世保市民の総意にならないのかとの筆者の不躾な問いに「情報量の差」を挙げた。
例は枚挙にいとまがない。市は昨年9月の広報で「渇水の歴史と石木ダム」を特集。全戸配布で「20回(約2年に1度)渇水危機に直面」していると煽った。「石木川まもり隊」は集めたカンパで反論パンフレットを作成、2カ月をかけて全戸の3分の1弱にポスティングするのがやっとだった。渇水20回のうち給水制限があったのは3回だけで、17回は節水の呼びかけに過ぎなかった。その呼びかけは、既存のダム貯水率が80%を下回っただけで行われた年もある。パンフレットでそんな石木ダムありきの市の渇水キャンペーンを打ち消そうとした。
しかし、「何かをやると倍返しで返ってくる」と松本さんは苦笑する。
昨年11月には市内4団体で長崎県知事に直訴し、水需要予測が過大で、水が足りないとしても代替案があると具体的な提案も行い、県議会でそれが取り上げられた。
ところが、こんな努力もよそに、朝長則夫・佐世保市長は翌月12月27日に市議らと大挙して知事を訪れ、石木ダム建設促進を要望した。長崎県土木部河川課によれば、「収用地の施工も含む建設促進」だったという。実際にそれが今年2月にも3月にも起きている。
当初の目的を失ったダムが完成した時に一体誰が喜ぶのか。地方債と国債で事業費が賄われ、その償還金が、次世代の稼ぐ税収の使い道を狭める。こんな構図を止められず、山と川と海を壊し続けているのが、今の日本だ。