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石木ダム事業、長崎県による土砂投入の耕作地に墓石、300年前の物か

 長崎県の石木ダム事業は、強制収用された事業用地で生活する13世帯住民の抵抗が続いていますが、長崎県はなんとしても事業を続けたいらしく、住民の生活圏内で作業を強行するようになってきています。そうした土地には住民の歴史と暮らしが刻み付けられていることを地元紙が伝えています。
 全国各地のダム事業で同様の破壊が繰り返されてきました。八ッ場ダム事業においても、大量の墓地が掘り返されました。その中には、縄文時代の人骨が出土した遺跡や、この地域特有の両墓制を残す墓地もありました。

◆2023年5月8日 長崎新聞
https://nordot.app/1028123261001334784
ー石木ダム建設・土砂投入の耕作地に墓石 専門家が年号、形態で300年前の物と推定ー

 長崎県が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業で強制収用した反対住民の耕作地に土砂投入を始めてから1カ月が過ぎた。その一角に、高さ約90センチの丸みを帯びた墓石がある。専門家は「故人がこの世で生命をいただいた証し。ぞんざいに扱ってはならない」と指摘する。
 墓石は石木川と畑の間にある。この畑では2021年4月に81歳で亡くなった岩永サカエさんが花や野菜を育てていた。畑も、道を挟んで向かいにあるサカエさんの自宅も既に強制収用されたが、長女みゆきさん(61)が住み続けている。
 複数の住民によると、墓石の由来や弔われている人物ははっきりしない。「物心ついた頃からあるけど…」とみゆきさん。母サカエさんも祖母も畑仕事の傍ら、墓石に水をささげ合掌していたという。
 4月、天正遣欧少年使節の千々石ミゲルの墓所特定に関わった石造物研究家、大石一久さん=大村市=がこの墓石を調査。正面に刻まれた江戸中期の年号「正徳五」(1715年)と当時の墓石の形態が一致することから、およそ300年前の物と推定した。
 戒名と阿弥陀(あみだ)如来も刻まれている。手の込んだ作りで、地下に遺骨や遺構がある可能性も否定できない。「墓は時代の古さ、新しさに関係になく、人が生きた証し。懇ろに供養するべき」と大石さんは強調する。
 長崎県は3月22日、墓石の近くに土砂を入れたが、住民の抗議でいったん中止した。県から事前連絡はなく、みゆきさんはその夜、事態を知り、翌朝、畑を見て落胆した。「生活のすぐそばまで踏み込んできた。お互い人間なのだから一言欲しかった。私たちに人権はないのか」。4月12日には反対住民の仲間と県庁に抗議に出向いた。仲間が墓石について県にただしたが、回答は無かった。
 みゆきさんは「大事に弔うべきだ。粗末にすると罰が当たる」と話し、墓石に手を合わせた。
 長崎県石木ダム建設事務所によると、この墓石がある場所は石木川の河川敷で、強制収用した土地ではない。墓石の存在は2013年に把握したが詳細不明で「文化財ではない。移設できないか検討中」としている。県道と付け替え県道をつなぐ迂回(うかい)路整備の一環で土砂を入れたという。