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八ッ場ダム予定地は、古くから人々が住み暮らしてきた土地です。
吾妻川が流れる谷間と両岸の河岸段丘には、平らな土地はわずかしかありませんが、ダム事業による発掘調査によって、多くの遺跡が発掘されつつあります。
考古学者の勅使河原彰氏は、ダム予定地について、次のように綴っています。
「吾妻川沿いの平坦地 とその背後に急峻な山地をもち、豊かな水場に恵まれた箱庭的な小世界こそが、遺跡立地の好条件を提供 していたのである。
それは魚も住まず、農業にも利用できない「死の川」といわれていた吾妻川とは、似ても似つかない豊かな歴史を育んできたことは、この流域に濃密に分布する遺跡からも明らかである。」(2013年1月12日集会配布資料より)
右の表は、八ッ場ダム事業に伴う発掘調査の対象遺跡のリストです。角倉邦良群馬県会議員が県より入手した、八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査の実施に関する原協定書(1994年3月18日)、第三回変更協定書(2008年3月27日)、第五回変更協定書(2017年3月29日)の別紙資料をもとに作成しました。八ッ場ダム事業用地にどのような遺跡があるのか、発掘調査の進捗に伴い調査予定面積がどのように変化してきたのかを見ることができます。八ッ場ダム事業において発掘調査の対象予定とされた遺跡は、第五回協定変更(2017年)で60遺跡となったことがわかります。
この資料は、協定書の別紙資料をもとに当会が参考資料として作成したものです。
発掘調査終了後の報告によれば、調査遺跡は66遺跡(このうち長野原町の遺跡は52)でした。
(やんば天明泥流ミュージアム学芸員講座「八ッ場ダム建設に伴う発掘調査ー26年間を振り返るー」配布資料)
八ッ場ダム事業にともなう埋蔵文化財の発掘調査が始まったのは、1994年のことです。建設省関東地方整備局と群馬県教育委員会との間で同年3月に協定書が結ばれ、当初の調査対象面積は約57万m2、調査期間は1994年~2006年、調査費用の概算総額は約66億円とされました。
これに先立って、長野原町が実施したダム予定地の埋蔵文化財の詳細分布調査によれば、ダム予定地の長野原町東部五地区で確認された埋蔵文化財包蔵地はこの時点で79遺跡にものぼりました。その後、ダム関連事業に伴い、調査対象面積は大幅に拡大し、遺跡数も増大します。東宮(ひがしみや)、尾坂(おさか)、久々戸(くぐど)など、その後、大規模な発掘調査が実施されることになった遺跡も、この時点ではまだ確認されていませんでした。
発掘調査に関する協定は、その後、変更が繰り返されてきました。
2005年の第2回変更では、調査期間が2005年度から2010年度に延長、
2008年の第3回変更では調査期間を2015年度に延長、発掘調査費用を約66億円から98億円に増額しました。(協定の添付資料によれば、発掘面積は約103万m2と、当初の約57万m2から大幅に増加)
2016年の第4回変更では調査期間を2016年度に延長、発掘調査費用を約110億に増額、
2017年の第5回変更では、調査期間を2019年度に延長、発掘調査費用を約137億円に増額しました。(協定の添付資料によれば、発掘面積は約101万m2)
2003年には代替地に移転した長野原第一小学校の跡地に県埋蔵文化財調査事業団の八ッ場ダム調査事務所が建てられ、地元住民が作業員として多数参加した発掘調査がダム予定地の各所で行われてきました。
国交省、群馬県教育委員会、県埋蔵文化財調査事業団の三者は、効率的に発掘調査を進めるため、毎月のように調整会議を開いてきました。群馬県教育委員会より情報開示された調整会議の議事録により、これまで一般には知られていなかった発掘調査の問題点が浮かび上がってきました。
2007年の協議の過程で、群馬県は国交省に対して、調査には130億円かかると説明しましたが認められませんでした。発掘調査の事業地面積は、当初協定の約57万m2から07年度の再確認では約136万m2に膨らんだのですが、議事録は98億円という枠内に収めるため無理な計画を立てていることを伝えています。
八ッ場ダムの事業費が2016年の計画変更で4600億円から5320億円に増額されたのに伴い、2017年の発掘調査に関する第5回協定変更では、発掘調査費用が2007年時点で群馬県が要望していた130億円をようやく上回ることになりました。しかし、第5回協定変更の添付資料によれば、発掘面積は07年度に確認された約136万m2より30万m2以上も少ない約101万m2となっています。費用が限られる中、発掘面積を抑える力が働いていることが懸念されます。
八ッ場ダム予定地の遺跡の発掘事業を行っている群馬県埋蔵文化財事業団では、今年(2012年)5月から8月にかけて、水没予定地で発見された東宮遺跡の展示会が開かれました。展示会場に掲げられた八ッ場ダム予定地の埋蔵文化財についての説明文がこの地域の特性を伝えていましたので、一部引用します。
「八ッ場地域は山間の国境にあり、しかも周囲を分水嶺で囲まれた特異な地域です。このことが、八ッ場地域の独自性をなおいっそう際立たせていると考えられます。
豊かな自然環境の中での縄文社会、稲作農業社会への独自の対応、平安時代の謎に満ちた活況、まぼろしの「三原庄」と滋野源氏一族、海野氏の土着、天明泥流のタイムカプセル。・・・これらの遺跡は、いずれも平野部の遺跡とは一味違った独自性を見せてくれるだけでなく、歴史の大きな流れに対して、地域がどのように対応したのかを私たちに示しているように思います。」
時代区分で見た時、八ッ場ダム予定地の遺跡の中で質量ともに最も豊富なのは、縄文時代と天明三年浅間災害の遺跡です。
八ッ場ダム予定地では長野原一本松遺跡、横壁中村遺跡がよく知られています。両遺跡ではともに250軒以上の住居跡が発見され、縄文中期後半から後期にかけての大規模集落の営みが明らかにされています。
また、2008~09年にかけて発掘調査が行われた林中原Ⅱ遺跡においても、120軒以上の住居跡がみつかり、縄文中期から後期に至る大集落の存在が新たに確認されました。同じ林地区の楡木Ⅱ遺跡では、撚糸文期の竪穴住居31軒が確認され、県内はもとより全国でも希少な調査例とされています。縄文時代の遺跡としては、他にも東原遺跡、立馬遺跡、花畑遺跡、上ノ平遺跡、三平遺跡など数多くの遺跡があり、すでに調査されている天明浅間災害遺跡の下に縄文時代の遺跡が埋もれている事例も少なくありません。
さらにダム予定地域で注目されるのは、岩陰遺跡の存在です。岩陰遺跡は地形的に限られた地域に立地するため、群馬県内でも確認された遺跡はわずかです。吾妻川流域は、そのほとんどが河川や渓沢に沿う山岳傾斜地帯で、急峻な山地もあることから岩陰遺跡が立地する好条件にあります。
当該地域で特に有名なのが縄文時代草創期、早期の石畑岩陰遺跡です。この遺跡は、吾妻渓谷のダムサイト予定地近くの水没予定地内にあり(標高約520メートル)、撚糸文、押型文など様々な土器群やイノシシ、鹿の骨などが出土しています。
しかし、縄文時代の遺跡がこれほど豊富な地域でも、群馬県内で稲作農耕が始まる弥生時代中期後半になると、人々の活動の痕跡は途絶えてしまいます。この状況は、西吾妻地域全体に見られる傾向です。その後、八ッ場ダム予定地域に集落が戻るのは9世紀後半からです。
八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財報告書第1集、第23集、第35集、第37集
群馬県と長野県の県境に位置する浅間山は、わ国有数の活火山です。ユネスコのリスク評価で国内では九州の桜島に次ぐ第2位の火山に位置づけられている浅間山は、広範 囲に影響をもたらす噴火を過去に何度も繰り返してきました。
中でも、江戸時代・天明3(1783) 年の大噴火は甚大な被害をもたらした火山災害として知られています。
八ッ場ダム予定地は浅間山の火口から流下距離で 23~28キロ前後の位置にあります。天明3年8月5 日午前10時頃の噴火後、吾妻川を流れ下った天明泥流は約1時間でダムサイト予定地に到達したと予想されます。犠牲者が川原畑 4 名、川原 湯 14 名、林村 17 名と、災害の大きさに比べて比較的少ないのは、泥流の勢いがそれほど 強くなく、住民の多くが背後の山に逃げのびたためと推測されています。
泥流堆積物は八ッ場ダムの水没予定地を1~2メートル覆っており、泥流に呑みこまれた時点での村人の生活と被災状況がタイムカプセルのように封印されることになりました。ダムの事業用地に遺跡があることは珍しくありませんが、 八ッ場ダムの場合は、水没予定地全域が天明 3 年の泥流堆積物に覆われているため、遺跡の中にダム予定地があるといっても過言ではありません。
田畑の丹念な調査は、大噴火の前兆である軽石や灰が降る中、当時の人々が農事暦にのっとって農作業を続けようとしていたことや、それでも作柄が著しく不良であったこと、災害直後から礫や砂をどかし、田畑をつくり直す懸命な復興作業が行われたことを二百年以上たった現在、土の中からまざまざと蘇らせることになりました。
浅間山から約23キロ地点にある全水没予定地の川原畑地区は、江戸時代当初は沼田藩真田氏の領地でしたが、1681年、幕府領となりました。当時の代官所が作成した年貢皆済目録から、大噴火以降、川原畑村の年貢高は、泥流被害以前と比べると七分の一以下に激減していたことが明らかになっています。
川原畑地区の東宮遺跡では、2007 年から始まった本格的な調査で 七か所の屋敷跡、畑跡が姿を現し、その遺存状態の良さが当初から大いに注目されました。1783 年当時 の川原畑村は、酒造業、養蚕、麻栽培なども行われる活気ある村であったことが明らかとなり、「貧しいとされた当時の山里の暮らしぶりを覆すような発見」と報道されました。
災害遺跡の発掘調査は、流域に大きな被害をもたらした泥流のメカニズムを解明 する資料を提供することとなり、将来の災害に備えた防災の観点からも、貴重な知見を集積 しつつあります。
「自然災害と考古学」(群馬県埋蔵文化財調査事業団 編 、上毛新聞社)